2015/01/21

痛いって嫌だけど大事なんですね。


私は痛いのは大嫌いです。
痛いことはしたくないです。
痛くなるようなこともしません。

ですが
去年末は痛みについて2つの学びがありました。
痛みというシグナルは大事だということを。

痛みを数値化できたとしても敏感か鈍感は人それぞれです。
できることなら痛みに対し鈍感、強い方が
普段の生活はしやすいでしょう。
ちょっとのことで薬飲んだりせずに済みますから。
私は敏感な方、弱いのですぐに「痛い」と思ってしまいます。
口に出すかは別ですが。
みなさんはどちらですか?
敏感ですか?鈍感ですか?
強いですか?弱いですか?
我慢しますか?

結論から申し上げますと
敏感にキャッチできる方がいいと思います。
慢性化して慣れてしまうと
痛みは何か異常を知らせるシグナルなので
キャッチして初期段階でどうにかするべきです。
しかし痛い痛いと騒いでばかりだと
逆に周りが煙たがる場合もあるので難しいところではありますが。

痛みのシグナルを的確にキャッチできなくなることで
治療ができなくなった方がいました。
それはある方の抗がん剤治療でした。
痛いというシグナルの意思表示をみて
治療を進めていくものだったそうですが
それが正確に表示できなくなってしまった故に
治療を進めることができなくなりました。
結果がんは進行し、この世を去りました。

私は医者ではないので正確なことはわかりませんが
治療なんだから本人の意思とは別に
病状を科学的に検知して
治療を進めればいいのだと思っていました。
しかし本人の痛みの反応が正確でないと
治療を進めることができないものがあると知り
痛いのが大嫌いな私にとって衝撃的な事実でした。

痛いのを治すのに痛いのがわからないと治せない。

そしてもう1つが出産です。
未だに出産という素晴らしい体験が
どうして痛みを伴うことが必要なのかわからないのですが
痛さと子宮口の開きをバロメーターに助産師は
絶好のタイミングを母親に指示します。
陣痛も出産が近づくことを
おもしろいくらい定期的に痛みを刻み
本人に気づかせます。

体に変化が起きることを
痛みで知らせる方が
違うアクションを自分に起こさせるのに
有効なんでしょうかね。
そして、いつもはフリーな体を
痛みで制限をし
壊れないようにセーブをかけるのかもしれません。

それにしても
痛みというのは心労を伴うのも事実です。
早く解放されたいと誰もが思います。

すーっと痛いと
何がベストコンディションだったのかを
忘れてしまいそうですが
それは
今はセーブしろってことなんでしょうね。

2015/01/16

隣の芝生が青く見えたら。。。




隣の芝生が青く見える

なんて言葉があります。
誰しもがそういう経験があるかと思います。
でもそういう時は
おそらくだいぶ視野が狭くなっているのではないでしょうか?

その青いきれいな芝生は
一体どのようにして管理されているかを考えれば
そりゃ青くてキレイに決まっているのです。
いろいろ理由はあると思いますが
私が思うに、相当の努力がなされていると思います。
ただこちらには見えていないだけで、見せないだけで。
だから簡単にいいなーって眺めているようじゃ
到底そこにはたどり着けませんね、実は。

もし自分の芝生も青くキレイにしたいのなら
隣の芝生見ている時間ないと思います。
正確には目にもとまらない。
それくらい今すべきことに集中しないと
本当に芝生は青くキレイにならないのです。

いつかは。。。
なんて言ってるようでもダメなんじゃないかと?
そうやって周り近所の芝生ばっかり見て
自分のところの芝生を放っておいたら
いつまでもいつまでも
隣の芝生は青く見えるのですから。
そうやって自己嫌悪にずっと陥っている人
やること、やれることたくさんあるのに全然しないんです。
それだから青くキレイにならにのに!

しかも、そういう人に限ってやること選り好みするんです。
隣の芝生の青さに魅了され
それに繋がりそうなことしかしない。。。
視野が狭くなっているのに
そんな選り好みできるわけないんですよ!
そもそもそんな取捨選択力あったら
もうとっくに芝生は青くなってますから。
何がそこへ繋がるかわからないのに選ぶなんて傲慢です。

もう一度書きますが
青い芝生の持ち主は
こちらが考えている範囲を越える並々ならぬ努力をしています。
こつこつ見えない努力をね。
そしてその持ち主は
周りの芝生のあれこれなんて気にすることなく
今の自分のすべきことに全力で行っているのではないでしょうか。

2015/01/05

変化は自分がもっている執着を如実に表す


ある人に
「子供ができると家族のリレーションシップが変わり
それがおもしろいのよ」
と言われた。

確かに結婚しただけでも大きな変化はあったので
子供ができたらきっとそうなるだろうとは思っていた。

いざそうなると
自分が想像していた以上に変わった。
そして「家族」という枠の重要性を感じるようになった。
自分の家族もあるが、両親や妹弟
また義理の両親も含めた枠での
家族のリレーションシップが変わったように感じる。

1人の存在がここまで変化を起こすのを目の当たりにするのは
本当に凄いし、おもしろい。
会社や学校や何かのグループでも短期間で
ここまでの変化は見たことない。
だいたい時間がかかるものだ。
しかも特に何か彼がしたわけでもなく
ただ存在するだけで大きく変化するリレーションシップ。
それは私と誰かはもちろんだけど
その周りにいる人と人とも変化する。

なんということなんだ!

さらに変化するリレーションシップは人とだけではない。
私と体、私とお金、私と時間など
様々なものに変化を起こす。
これもまた1つ1つ見ていくと実におもしろい。

あるブログで子育てが大変な理由は
自分がしたいと思ったことが最後まで達成できないこと
という文を読んだ。
確かに仕事や期日が決まった事柄であれば
それは私にとっては非常に不愉快になることだ。
今は幸いにそういう環境でないので不愉快になることはないが
ここに社会のシステムが加わるときっとそこに直面するだろう。

でもこういった事とも
リレーションシップが変わっていることを
認識しなければならない。

そもそもゴールや達成が欲求を満たすこととしていたのなら
社会のシステム的にそのたぐいのものが多いが
それらとのリレーションシップも変わる。
どう変わるかは人によって違うが
急にそういう状況になる故
(彼らは突然現れるからね、でも妊婦期間も入れたら長いが)
その急変にすぐに対応できないのが心と頭だ。
だからはじめは苦しいし、しんどい。
私もだいぶ戦った。
でもリレーションシップの変化がわかる、受け入れると
いろんな発見があり、おもしろく感じる。
今はもしかすると
仕事には向いていない自分に変わってしまっているかもしれない笑

よくよく考えてみれば
リレーションシップは何も子供ができること以外でも
いくらでも変わる。
その変化に対応できないとストレスが生じる。

けれど変化は自分がもっている執着を如実に表してくれる。

こうしたい!ここまでやりたい!これがいい!こうでありたい!
色々なものと自分とのリレーションシップが
執着まみれであればあるほどストレスが強いように感じる。
そのストレスが心と体を蝕む。

ゴールや目標を設定することはもちろん大事だけど
そこに執着が生まれると事が前に進まなくなる。

永久に変わらないリレーションシップはない。
同じクオリティが求められる仕事などには
全く求められない事実だ。

けれど生きてる私たちはまぎれもなく有機的な存在。

授乳をしながら感じたことを
だらりだらりと3日間かけて書いてみた。

今日は2015で初めての満月。